広がる学び

[コラム] 実験動物と生命科学の飛躍的発展

"That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind."
一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとってはきわめて大きな飛躍である。

 これは、人類が初めて月に立ったときのアポロ11号の0908_fig2Armstrong船長の言葉です。この瞬間が輝いているのは、何か新しい発見がなされたからではなく、人類の偉大な技術革新が現実に目の前で起こったからでしょう。このような劇的な飛躍の瞬間ではありませんが、人類が生物学上に残した非常に大きな飛躍ともいえる技術革新にマウスの受精卵に外来遺伝子を注入することによって誕生させた遺伝子組換え動物(トランスジェニック動物)の研究があります。


 1980年にGordonとRuddleらはマウス受精卵に外来遺伝子を導入することによって最初の外来遺伝子導入マウスを作製しました。残念ながら、このとき導入された遺伝子は、発現のためのプロモーター配列を有していませんでしたので発現せず、表現型も変わりませんでした。しかし、Brinster とPalmiterらが重金属誘導性プロモーター配列をつないだ外来遺伝子を導入すると、導入された遺伝子がマウス個体において強く発現し、次世代に遺伝することがわかりました。外来遺伝子を導入したマウスはトランスジェニック(transgenic)マウスと呼ばれるようになりました。さらに、1982年に同グループによって、プロモーター配列とラットの成長ホルモン遺伝子を結合させた雑種遺伝子を、マウス受精卵にマイクロインジェクションして作製されたトランスジェニックマウスは、世界中を驚かせました。0908_fig3このラット成長ホルモン-トランスジェニックマウスは著しく大きく成長し、普通のマウスのおよそ2倍の大きさのジャイアントマウス(スーパーマウスと呼ぶ人もいます)になったのです。人類が自分たちと同じ哺乳動物の生殖系列に、自分たちが作製した遺伝子を導入して、一代限りではなく遺伝的に安定な状態で表現型を変更させることが可能であることが示された瞬間です。これにより、培養細胞という人工的な環境ではなく、発生過程や成体の組織といった自然な状況における遺伝子発現制御の研究が可能となり、遺伝子から個体レベルへと続く新たな実験生物学の幕開けとなりました。現在、遺伝子組換えマウスの作成方法の主流は遺伝子破壊が可能なES細胞を用いた方法となっていますが、動物の生殖系列を実験的に操作して表現型を変えるという transgenesis の基本原理は、受精卵への遺伝子の導入によるトランスジェニックマウスの誕生をもって証明されたのです。

 生物学において使用される動物種には、ウニ、ショウジョウバエ、カエル、線虫など様々ですが、最初につくられたトランスジェニック動物は、驚くべきことにマウスなのです。最初のトランスジェニック植物もトランスジェニックマウスよりも後に作られました。見過ごされがちですが、初期発生が母胎で進む哺乳動物であるマウスの生殖系列に遺伝子を導入し、成体まで成長させることができたことは、生物学上のきわめて大きな技術革新なのです。ここに到達するためには、体外で受精卵を維持・発生させる技術、遺伝子組換え技術、超微量DNAを受精卵に注入する技術、体外で操作した胚を子宮内へ戻して産仔を得る技術など、数多くの技術が組み合わさって初めて可能になったのは言うまでもありません。

 自然界では生殖系列における遺伝情報の変化を原動力として生物が進化してきました。人類は、遺伝子の正体が未知であるときから育種によって動物や植物の生殖系列に人為的選択を加えていました。やがて、遺伝の法則が明らかにされ、遺伝子の正体がDNAであることが解明され、さらにそのDNAを操作する遺伝子工学の技術が開発されました。そして、遺伝子工学をもとに作られた組換え遺伝子を生殖系列に導入することによって、自然界では偶然を頼りに起こっていた遺伝的変異を自らの手で操作できるようになりました。こうして作られた遺伝子組換え動物は、農学・医学領域を問わず基礎・応用研究になくてはならない存在になっています。そして何よりも、遺伝子組換え動物から得られる一つ一つの研究成果は、生命科学への興味・探究心を育み、私たち人類の本能とも言える知的好奇心を大いに刺激し、次の新たな飛躍のためにかけがえのないものと言えます。

                                      担当 細胞工学研究室
                                      准教授 久保田浩司
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